自己肯定感より大事なもの

こんにちは。

新留です。

7月からジムに通い始めたのですが、ただいま猛烈な筋肉痛に悩まされています。

野球のダルビッシュ選手が好きなのですが、ひさしぶりにインタビュー記事などを読んで影響を受けたのでしょうか。

映画館でアクション映画や任侠映画を見て、帰りに強くなった気分になるような感じでお恥ずかしい限りです。。。

さて、夏期講習が終わり少し経ちましたが、暑かった夏を超え、いい変化を見せているなと感じる子たちがいます。

高学年になると、目的に合わせた「量」の練習が必要になってきたりしますが、できたできなかったかではなく、それをしっかりとやり遂げた子というのは、

実力の変化はもちろんですが、「小さな自信」のようなものを感じるのですよね。

大変だなと思いつつもがんばった自分に、充実感や手応えなど感じているのかなと思います。

そうやって、自分のなかの手応えを感じていくことって大事です。

不幸そうに見えて幸せな人もいれば、

幸せそうに見えて不幸な人もいたりするように、

大事なのはどう見られるか? ではなく、自分がどう感じるのか、なのですよね。

「自己肯定感」が大事とよく言われますし、実際に、書店などを見て回ると、自己肯定感を上げることをうたった本などもたくさん見られます。

ただ、「自己肯定感」というのは微妙で、それらは実際には、自己肯定感に似たナルシストをつくっていってしまうこともあります。

自己肯定感を高くしようということは、やらない人になる怖れ、やらないのにできると思っている「意識だけ高い系」になる怖れがあるのですね。

実際に、1980年代に海外で「自尊心運動」、たくさんほめて、子どもの自己肯定感を上げていこうという流れが起こったことがあります。

どうなったかというと、子どもたちの成績は「下がった」のです。

自己肯定感をまちがって身につけてしまった子は、できないことや課題に向き合った時に、

「これ好きじゃない」

「飽きた」

「こんなことやっても意味がない」

というようなことを言ったりします。

これはたしかにそういう時もあるかもしれませんが、実は「できない自分」に向き合いたくないので、自己防衛に走っているだけということもあるのですね。

筋肉をつけようと思ったら、今持っている100の力を超えた「101」以上の負荷をかけなくてはいけないように、

それでは、能力を伸ばしていくことや、何かを身につけていくことは難しいでしょうし、本当の自信もついていきません。 

自己肯定感よりも大事なのは「自己効力感」、自分はやればできるようになるという感覚と体感、経験なのですよね。

そして、「自己効力感」は、数年前から注目されるようになった「非認知能力」、物事を達成していく際に必要な「やり抜く力」や「自制心」につながっていきます。

今までに自分ができるようになったという経験や、自分はやればできるようになるという感覚がなければ、目標のためにブレずに努力し続けることや、目標のために何かを抑えるということができません。

コロンビア大学心理学教授だったウォルター・ミシェルさんは、

「幼いころに成功体験や自己効力感を自覚する体験をした人は、その後、根気強く目標を追求し、成功に対する楽観的な見通しを育み、成長の過程で避けられない挫折や失敗や誘惑に対する意欲や能力が高まる」

と言いますが、

子どもたちがこの夏の経験を通じて、学ぶことを楽しいと思えるようになったら、

そして、自分はできるようになるんだ、と感じられるようになったらいいなと思います。

「やり抜く力」や「自制心」などの「非認知能力」というものは、自分で小さな約束を決めて守ったり、ウソをついたり、ごまかさないようにしたりといったちょっとしたことでも筋肉のように鍛えられます。

子どもたちがこれからも自分の可能性を自覚し、伸ばしていってくれますように^^

夏期講習の理科では火山と岩石について学習。火山の模型をつくりました^^

モテる子

こんにちは。

昨日は子どもたちと授業後、秘密の抽選会で盛り上がりすぎ、かなり幸福度が高かった新留です。

抽選やクジなどをすると、持っている子は持っているな、ほんとに将来楽しみだなと感じる子がいますね^^

授業前や休憩中、授業後など、子どもたちはにぎやかに遊んだり、静かに本を読んでいたりと、それぞれが好きな時間の使い方をしていますが、

観察していると、それぞれ個性が出ていて、おもしろいなと思います。

一人で黙々と本を読んでいる子、

うろちょろしている子、

次の時間に向けて準備や練習をしている子、

他の子といっしょに勉強している子、

先生にちょっかいをかけている子……

そして、

それぞれいろんなことをしていますが、何をしていても、まわりに人が集まってくる子もいます。

本を読んでいても、

「な〜、いっしょに遊ぼう〜」と言われ、

勉強をしていてもまわりに友達が集まってきて、

トイレに行っても付いてこられ(そして、扉をドンドンされたり笑)

もう、「スター」のよう。

男女問わず集まってきた子たちから、

「いっしょに遊ぼうよ〜」

「お前がいないとつまんないんだよ〜」

と言われているのを見ていると、

モテモテっぷりに驚かされます(将来、そちらの方でも有望ですね笑)

そういう子たちを見ていると、

自分の好きなことをしているし、

遊ぶときは遊ぶ、集中してやるときはやる、

そして、他の子のことも見ていて、時にはやさしい声をかけてあげたりもしています。

ちょうど高学年のクラスの国語の授業で、心理学者である榎本博明さんのコミュニケーションについての題材を読み、

「コミュニケーションは自己満足のための道具ではない」

というようなことを学び、

子どもたちと、好かれる人、嫌われる人、などについて話し合っているところだったのですが、改めて、人間関係って家庭環境に恵まれ、自然にできる子もいるけれど、知識であり、磨いていくことができるスキルでもあるのだなと感じます。

(ああ、あの頃は……と自らの過去を(現在も?)反省しつつ。。。)

こういう社会に直結することを知ることができる、学べるところが国語のおもしろいところであり、題材を選ぶ楽しみでもあるのですよね^^

子どもたちには、いろんな学びや経験をしながら、

自分のことを大切にして、集中し、目標のために正しい努力をする力、

相手のことも尊重し、協力し、いい人間関係を築く力を育んでいってもらえたらなと思います。

この後、爆笑の結末が…

スマホと競走馬とブリンカー

こんにちは。

新留です。

少し前から、ちょっとした時間に、意識して、スマホの電源をオフにするようにしています。

きっかけは、昔、話題になった『話を聞かない男、地図が読めない女』にも書かれている、

「彼が新聞を読んでいたり、テレビを見ているときは、私が何を言っても聞いていないのよね」

という愚痴を女性なら一度はこぼす。

という男性が持っている特徴による体験を自らしたためだったのですが、、、(苦笑)

「集中したいときは電源オフ」のクセは(いろんな面で)少しはいい効果をもたらしているのでは? と思っています。

そのひとつが精神的なゆとりができたことです。

最近では、スマホを持っている小学生も多くなっていて、教室にも子どもたちが持ってきたりしていますが、本当にこのスマホというのはクセもので、時間と集中力を奪います。

まだまだ自制心が発展途上の子どもたちには授業中は絶対にさわらないよう、

持っていることを意識しないでいいよう、目の前のやるべきことに集中できるよう、

机の上には置かず、カバンの中に入れたり、手の届かない場所に置くように言っていますが、

(人間は手が届かないからイスから降りないといけないなど、ちょっとした手間をかけるだけでやりたくなくなるという性質があります)

子どもたちより自制心の多少強い(と思いたい)大人でも、スマホに時間と集中力を奪われているなと思います。

どうしてもスマホを電源オンにしていると、時間を確認し、そのときにちょっとSNSをチェックしてしまったりしてしまうのですね。

スマホをちょっとしたときに電源オフにすることで、気にならなくなり、目の前のことに向き合えたり、少し精神的ゆとりができ、大事なことをする時間が増えたような気がしています。

本当にゆとりって大事だなと感じます。

そして、ゆとりは先延ばしグセの改善にもつながるのですね。

人間には、何か欠乏しているものがあるとき、とくに「トンネリング(視野狭窄)」を起こしているときには、重要だが緊急ではないこと(投資的なこと)を先延ばしにしてしまうという性質があります。

目の前のことを解決することにいっぱいいっぱいで長期的なことを考えられないし、何が大事で何が大事でないかを考えたり、優先順位を立てたりすることができないのですね。

時間的なゆとりがあると、大事なことに時間を使えるし、遅れているものをフォローすることもできる。

詰め込み、絞り込むことは、競馬で馬にブリンカーをつけるように、短期間、目の前に集中させることはできるかもしれませんが、

競走馬には優秀な騎手がいるように、それをうまく使えないと、視野狭窄になり、大事なものが見えなくなったり、まわりとぶつかったり、疲弊したりするので注意が必要だなと思ったのでした^^

グミのプレゼントをもらっちゃいました。うれしい^^